「戸建も考えたんだけど、とりあえず今の段階ではまだ早いかなと思って」、彼女は花を花瓶に活けながら楽しそうに言った。「通勤を考えると、こっちの方が断然楽だしね」。コーヒーの良い香りが部屋に満ちてくる。先月引越をした同僚の部屋は明るくて快適だ。「でも、家賃は前の方が安いんでしょう?」私は聞いてみた。家賃なんかの固定費は、出来れば極力抑えたい。
私が持参したシフォンケーキを切り分け、彼女は淋しげに微笑む。「そうなんだけどね」、彼女が言いよどむ。突然引っ越したわけは気になるけれど、余りしつこく追求するのはやめたほうが良いかもしれない、そんなことを考えながら私はコーヒーを啜った。人には色々な事情があるのだから。
それから半月程たった頃だった。その日は休日で、ベランダに飾る観葉植物を探しにホームセンターに足を運んだ私は、そこで彼女を見たのだった。彼女がいたのはペットコーナーで、真剣な眼差しで棚を見詰めていた。声をかけようとしたその時彼女は振り向き、微笑みを浮かべたのだ。視線の先にいたのは営業部の先輩で、イケメンで爽やか、女子からも人気の社員だった。
何故か私は2人を避けるように、急いでレジに足を向ける。私が悪いことをしているわけでもないのに、心臓がドキドキいっている。私たちは営業の補助的な事務をしているので、営業とは仲が良い。頼まれれば説明のために同行することもあるし、プレゼンを行うこともある。あの2人のことを特別どうこう感じたことはなかったけれど、このことは黙っていよう、私は思った。
それからしばらくして、私は彼女から結婚することを告げられた。相手はあの営業マンのイケメン君。「それで、部屋を…」、その私の声を遮るように、彼女は笑った。「違うの、猫が先なの」。猫?2人でお客様宅を訪問した帰りに雨にあい、雨宿りしていたら猫の鳴き声がして…。「それで、ペット可物件を探すことにしたのよ」。「元々拾ったのは彼なんだけど、隠して飼うのも可哀想だし。そしたら」、猫だけではなく、人間まで転がり込んで来たというわけなのよ、私たちは顔を見合わせて笑った。